ご報告

このブログを通して父とご縁があったみなさまへ
また、一度でもブログを拝読くださったみなさまへ

私は、このブログ管理者の息子です。
本日は父に代わり、ご報告させていただきたいことがあります。

先日、9月1日に父が永眠いたしました。享年78歳でした

父は、ここでも報告していたように心臓に持病を持っておりました。しかし、ブログにも幾度と出てきたDr,NやOsa先生など素晴らしい先生方に恵まれ弱っている心臓と上手に付き合って登山やパークゴルフなど様々な趣味を楽しみながら生活しておりました。

亡くなった当日朝も普段と変わらなかったのですが、9時頃畑に出掛け帰りの遅い父を心配した母が11時45分頃様子を見に行ったところ休憩するようにうずくまっている父を発見したそうです。その時すでに心臓の鼓動は感じられなかったのですが、すぐに到着したドクターカーや救急病院で蘇生処置を施していただきました。しかし、先生方の懸命の努力の甲斐なく程なく父の死を伝えられました。

後日、母から聞いたのですが父は最近にも畑で倒れたことがあったそうです。その時は自分がなぜ倒れたのかも解らずに気が付いたら青空を見上げていたという事でした。今回も母が発見した時にはとても穏やかな顔をしていたそうで父は苦しまずに旅だったのではと考えています。

このブログは残しておきたいと思っています。又、4月にブログに上げていた写真を父が誤って消してしまったので暇を見つけて写真を復旧させたいと考えています。ただ、正確に掲載した写真が解らないので以前と違う写真だった場合は教えてください。それと、父のパソコンには今までの登山の履歴などが整理してありました。それらも後日ブログに掲載したいと思っています。

父の最大の生き甲斐は登山でした。登山を趣味としている皆さんが山頂に着いた時に
ふとやまじいじの事を思い出していただけると幸いです。

父は私達家族にとってとても大きな存在であり、誇りでした。

いままで、本当にありがとうございました。


Dear folks,

We have to inform you very sad news.
Yama-ji-ji , our family's nick name which means mountain grandpa because he loves mountain so much, has passed away on 1st Sep 2017.

His heart condition was not so good but normally he could spend as a healthy life going travel, playing park golf, hiking mountain and growing vegetables.

So it was very sudden things for our family , we were very shocked and in deep grief.

But we believe he lived a full life and never wasted a minute of his time.
He loves mountain, nature, friends and our family.
Our family recognizes again how he is loved by many friends and neighbors.

The funeral ceremony day was completely sunny day , it was really like he.

He looked so happy because he had became many true friends with people from different countries.
Thank you for your friendship.

If you have a chance to visit Japan again , please really come to his home.
His wife is always waiting for you all.


From Yama-ji-ji's family with love

百名山を短時間で登れる山…西吾妻山(人形石1,964m)

平成29年8月28日
山に登った日:8月27日(日曜日)
同行者:T&Y
アプローチ:行き:石巻東北道⇒福島JC⇒米澤・天元台
    帰り:米澤南陽道⇒高畠⇒113号⇒東北道石巻

西吾妻山はロープウェ−、リフトを乗り継ぐと北展望台(1,820m)迄歩かずに登れます。スキー人口が減少した現在、夏山登山に力を入れているのか『百名山を短時間で登れる山』として宣伝しているようです。ロープウェ−、リフトの所要時間は約1時間です。


 人形石山頂で   フデリンドウ


終点から次のカモシカ展望台まで約25分、この間2〜30人の登山者に追い越されました。ここからは朝日、飯豊連峰がまじかに見えるはずなのに予報に反して曇り、何にも見えません。
残念でした。更に木道を歩く事20分で人形石(1,964m)に到着します。西吾妻山は此の途中を西の方へ分岐して
約1時間位掛かります。体力のない私は人形石でお終いです。


前日の朝、猛烈な雨降り中、庭先で転倒。背骨を強打し腰と首筋を痛め、登りでは腰が痛く大変でした。高齢者は転倒が致命傷になる事が良くあります。幸い痛みがある位で日常生活には支障ないようです。こんな状況で山に登ろうと計画する方が無理なのでしょうが、これを止めたら私の一生はお終いだと何時も思っています。掛付けのDr、Nからは無理をしないように2〜3時間位の簡単な山なら良いでしょうと言われています。これからもロープウェー等利用できる山登りを楽しみたいと思っています。カ゛ンバロ−‼

解り易い坊さんの説教

平成29年8月23日
先日、義弟の葬儀に参列するため神奈川方面に出かけました。
80代の兄夫婦同伴でしたので列車の乗り換えに神経を使いました。


ルートは(石巻)⇒東北仙石ライン⇒(仙台)⇒東北新幹線⇒(東京)⇒中央線⇒(八王子)⇒横浜線⇒(橋本)
最大の難所は東京駅での乗り換えです、どうして東京にはあんなに人がイッパイいるのでしょう。人の波をかき分け目的のホームへたどり着くのに必死でした。


葬祭場は駅前だと案内されていましたが、田舎者の私達には駅前とは目の前の事だと思っていたのですが直ぐには目に入りません。
若い三人連れの女性に訊ねると親切丁寧に教えてもらいました。
結局200m以上も行った所を左折する事が解りました。


通夜でお経をあげてくれたお坊さんは都会で良く有る派遣和尚でした。お経をあげた後説教が有り、自分は福井県にお寺があるけれどそれだけでは食べて行けないので東京に出稼ぎに来ているという。通夜の儀式について解り易く説明され出席者一同納得。


お話によるとあの世に行くまで四十九日かかるのでその間遺族は七日毎に供養する様にとの事でした。これにより送られて行く本人も安心して極楽浄土に行ける事でしょうとか。


通夜の後横浜在住の娘夫婦が来てくれたので駅前のイオンモールへ入りコーヒーを飲みながら暫し歓談。帰りは入った方と反対側に出てしまいホテルへ帰る道が解らなくなりました。またまた親切な家族連れに道を聞いて何とか無事到着。あぁー、田舎者には都会は苦手だね。う〜ん、あの世に行くときは道順を教えてくれる人がいるかなぁー。

芸術とは何ぞや…リボーンアート

平成29年8月14日

牡鹿半島の突端に有る御番所公園に有名な芸術家の作品が展示してあるというので、車で1時間以上かけて行って見る。ヤマセの影響で冷たい海風が入り寒い。
半袖一枚では10分と耐えられない。大勢の観光客が来ていたが早々に退散。
芸術鑑賞は忍耐が必要、目の前の霊峰金華山も霞んで見えません。東北の太平洋側は冷たいオホーツク高気圧の影響で寒い日が続いています。7月下旬からお天とうさんを観る機会が極端に減っています。



荻浜地区にも大きな鹿のモチーフが有るというので寄ってみる。駐車場に車を止めようとしたがドロンコ、これでは長くつが無いと降りられない。荷上場近くに止められそうな場所があり漸く止める。素晴らしい芸術を鑑賞しようと歩き出すが目に入らない。人がぞろぞろ歩いて来る方へ足元を気にしながら歩く事10分。奥まった海岸に白い大きな鹿が展示してありました。芸術の価値の解らない私には何でこんな所に展示しなければならないのか解りません。


芸術鑑賞で疲れた私たちは仮設の食堂で昼食をとる。ここしかないので大勢のお客さんが空席を待っている。しかし慣れていないのか手際が悪い。30分程待って番がきてテーブルに座る事が出来ました。調理場を見ると若いスタッフが一生懸命調理しています。どう見ても素人、定食も値段が高い割にはお粗末。なんか不完全燃焼で帰宅しました。

あれから72年

平成29年8月7日
 早いものですね、終戦から72年になろとしています。
私の記憶は年々薄れ当時の事を思い出すのが大変です。


 縁あって二十歳の頃、米沢で2年半過ごしました。
私が戦前住んでいた広い屋敷に海軍の将校や陸軍の兵隊が大勢駐屯していました。その中の一人に山形県出身のSatさんという方がいらっしゃいました。母からその方から山形に来たら是非立ち寄って下さいと手紙を頂いていたので一度行って見てくれと言われました。今、そこが何処だったか全く覚えていません。只『川』の字が着いた所だったので多分『川西町』だったのかもしれません。


 米澤の寮の小母さんに教えられバスに乗って出かけました。
Satさんのお宅を訪ねると戦時中大変お世話になりましたと家族全員が集まって言われたような。しかし当時5歳だった私に顔もその他の記憶もなく何が何だかわからないまま歓待されたと記憶しています。
一つだけ強烈に覚えているのはお茶受けに大盛の砂糖を出されたことです。
返ってから此の事を寮の小母さんに話したら、この地方の最大の歓待の意思表示だという事らしいです。


 あれから早55年も過ぎました。私の記憶も曖昧になってしまいましたが、忘れてならない事はあのような悲惨な戦争を2度と起こしてはならないことですね。だが最近の日本は昔に返ろうとしているような気がします。今政治に関わっている人達は戦争を全く知らない人達です。教育勅語等朗読させる学校は要らないと思います。
愛国心は大事ですが教え方が間違っていると思います。
平和で安寧な暮らしが出来る様みんなで努力して行けたらいいですね。

『イザベラ・バード』が歩いた羽州街道を行く

平成29年7月19日
旅した日:7月15日〜16日
同行者:T&Y

森吉山登山後、秋田から青森に通じる羽州街道を歩いてみました。
今回運よく鷹巣大太鼓の演舞をまじかで見ることが出来ました。
7月15日は江戸時代より以前から綴子神社の例大祭が有りこの大太鼓を奉納する習わしがあったようです。鷹巣大太鼓会館近くの広場で大きな太鼓に10人位乗っかり演奏する様はまさに勇壮というほかはありませんでした。イザベラ・バードは7月下旬ここを通っていましたから、大太鼓を観ることは無かったようです。




鷹巣から県境の矢立峠に向かうと道の駅が有ります。この近くに旧矢立峠の街道が残っています。極最近入り口に看板が設置され解りやすくなっています。以前訪れた時は何処かよく解らず、歩くことが出来ませんでした。街道と言っても登山道と同じで人一人が歩けるくらいの幅しかありません。昔の名残でしょうか天然杉の巨木が残っていました。バードが歩いたのは7月下旬なのですが、この年は大変な豪雨が続き碇ケ関に向かう途中の橋がことごとく流され大変苦労したようです。今は車だと20分位いで行くことが出来ます。



碇ケ関から黒石に向かい『コミセ通り』を見て歩きました。雪国の知恵で家の表側に下屋をおろし、雪が降っても歩けるようにした今で云うアーケードです。これは新潟県内ではよく見かけます。黒石の『コミセ通り』はかなり古く築百年以上たっているようです。現代ではかなり不便だと思うのですが。バードはここが気に入ったか3日位逗留しています。彼女はここから青森の船着き場へ行き北海道へ渡っています。
私も断片的ではありますが彼女の歩いた栃木、日光、会津、越後、置賜、羽前、羽後、津軽と追いかけてみました。歩くしか交通手段がなかった時代(約140年前)とはいえ良く歩いたもんだと感心しています。北海道は道南を歩きましたから残りはもうわずかになりました。来年にでも残りの区間を歩いてみたいと思います。