戦後70年…戦争の記憶

平成27年8月14日

終戦の年に5歳だった私には戦争の記憶は余り有りません。私の生まれ故郷は現在の東松島市の農村で海岸近くには海軍の飛行場が有りました(現在の航空自衛隊松島基地)、家はそこから直線で3km位離れ処に有りました。左の見取図は私達家族が本家筋の家に間借りして住んでいた時の見取り図です。非常に大きな屋敷で約2000坪(7,000㎡)位あり、7棟の蔵や、作業場なども有りました(現在は畑になっています)。なので軍に接収され陸軍と海軍の兵隊が駐屯していました。

8月15日の昼頃重大な放送が有ると言うので演台の上に置かれた『5級スーパーラジオ』の前に大勢の兵隊と近隣の人達が集まっていました。セミがうるさい位鳴いて太陽がギラギラ照る暑い日でした。私には何のことか解りませんでしたが母から戦争が終わったよと言われました。翌日の16日にはあんなにいた兵隊は一人も居なくなりました。海軍が使っていた倉庫にはマニラロープや落下傘が少し残っていましたがそれも1週間もしないうちに誰かが持ち去り空っぽになっていました。母は落下傘が欲しかったなーと言っていました。落下傘は正絹で出来ていましたので沢山の衣類を作ることが出来たのです。


父は35歳で昭和19年の秋ごろ招集され満州へ。母は生まれて6ケ月くらいの末の妹を背負い、長男、私、長女の3人を連れて2度程空襲を逃れるため更に西側の山中へ避難しました。当時親戚筋の女性が住み込みでお手伝いしてくれていましたので何とかやっていけたのでしょう。昭和21年、私は小学校(国民学校)に入学しました。バスとか電車は有りませんから当然歩いて学校へ1時間掛けて通いました。この年の9月、父が復員してきました。私は父の顔を覚えていなかったので3つ上の兄と仙石線鹿妻駅まで迎えに行きました。白い服を着てリックサックを担いだ髭だらけの男が最後に電車から降りてきました。あー、これが父親だと直ぐ解りました。


父は酒を飲むと満州から無事帰れた時の様子をよく話していました。卑劣なソ連軍の終戦間際の参戦で捕虜になり、シベリヤへ移送される途中、走っている無蓋の貨物列車から集団脱走。多くの人達がソ連兵の標的にされ射殺されたそうです。幸い父は貨車から飛び降り直ぐ線路わきに伏せたので機関銃の死角になり助かったと言っていました。其れから約1年がかりで安東、奉天、錦州等満州の北から南へ縦断しコロ島から日本の引上げ船に乗ることが出来たという事でした。添付の手紙は父が博多に着いた時母宛に送ったものです。
それを父が亡くなった時、形見分けとして子供たちが貰ってきたものです。

悲惨な体験をした父は復員20年後病で亡くなりました。享年57歳でした。
戦争はあってはならないことだと解っていながらも今又戦争の道に踏み込みそうな雰囲気になってきています。人間は愚かな生き物ですね。もう少し賢くなりたいですね。