東日本大震災

平成23年3月21日
3月11日発生の大地震は未曽有の大津波で大変な被害をもたらしました。
停電し被害状況は全くテレビで観られずラジオのみの情報。19日からようやく観ることができました。
災害発生から10日経ちましたので10日間のドキュメンタリーを簡単に書いてみました。


3月11日、pm2:45突然大揺れを感じ只ジッと座ったまま物が落ちたり壊れたりするのを観ているだけ。
間もなくYが青い顔をして車で帰宅。何度も余震が繰り返しやってくる。津波警報の広報あり、しかし何時も
自分たちの住んで居る地域までは来ないので自宅にとどまる。壊れたものを集め掃除をして歩けるようにする。
次男の嫁と孫か仙台駅に居るはずなので急いでメールする。暫くして近くの小学校へ避難したとメールあり。
夜は隣の家族や両親も集まり9人の大家族で我が家に寝る。


3月12日、息子たちは災害支援の為早朝から出掛ける。
被害状況について息子たちから知らされるが実感がわかない。車が5段重ねになっているとか死体が電線に引っ掛かっている
とかこの世の地獄だという。会社の従業員が5人と連絡とれないという。大変心配だ。


3月13日
仙台で避難生活をしていた嫁と孫を次男が迎えに行き無事連れて帰る。
昼過ぎ近くの避難所でボランティアをしていた友人が来てaltのセーラ(オーストラリア)が避難してきているから迎えに来てくれ
というので車で行く。彼女喜んで抱きついてくる、仲間のA先生(初対面)も一緒だが良いかという。OKして一緒に我が家に
連れてくる。Yがすぐ温かい食事を出すと美味しいと言いながら全部食べる。昨夜はキュウリ半分だけだったと言う。
着の身着のままで何にも無いというので私の下着や防寒着等二人に分けてやる。彼女達、背丈が大きいのでYのでは合わない。
夜は隣の一家が引き揚げたので4人で早めに寝る。


3月14日
今日からの避難生活の為の資金を手渡し、ザックをそれぞれ与え靴下など最低限の衣類や小道具など渡す。
彼女たちの安否と居場所を知らせるため蛇田支所まで歩いて行き教育委員会へ連絡してほしいと文書を届ける。
帰路同じaltのジェーンとボブに出会う。午後避難場所になっている蛇田中へ彼女たちが行くとオーストラリア大使館から
セーラを探しに来ていると同じalt仲間から知らされたという。pm7時頃突然オーストラリア大使館の領事が訪ねてくる。
市役所でセーラの居場所を知ったので迎えに来たという。彼女泣き泣き領事と一緒に仙台へ移送される。
もう一人のA先生は親、妹祖父母と連絡とれないというが領事の使っていたソフトバンクの携帯で母親にメールする。
(ドコモは全く駄目)会社の従業員が生きて帰ってきたと息子の所へ立ち寄る。これで全員無事に帰還する。


3月15日
朝起きるとA先生が母からメールがあり蛇田中に居ると言ってきたと言う、よかったねー。A先生ほっとし笑顔が出る。
朝食前に近くの水道企業団にポリタンク6個持ってA先生、Yと3人で水汲みに行く。帰路A先生のAPとに立ち寄ると妹からの
伝言あり(A先生APのカギを車ごと流されて入れない状態になっていた)。さっそく母親を迎えに行き更に妹の居る
大塩小まで行く。何と妹と祖父母が一緒でA先生の家族全員が見つかる。
昼過ぎ古川に居る親戚に引き取られ我が家を離れる。


3月16日
ドコモの携帯が使える場所があると聞いてイオンの近くまで行くと、安否を気遣う着信が多数あり。
発信してもすぐキレる。携帯のアドレスが分かる人にメールして無事を連絡する。


3月17日
午前、水道が使えるようになるが電気はまだ。
午後、女川で働いているKさんが突然顔を出す。生きて帰ってきたと泣いて喜ぶ、津波に追われながら裸足で逃げて
何とか助かったが車も事務所もみんな無くなったし、石巻の自宅も破壊され使い物にならないのでイオンの近くにいる
親戚宅に避難しているという。Y、さっそく煮物など出すと美味しいといいながら全部食べる。帰路あり合わせの料理
や果物を持たせて帰る。


3月18日
次男の家が電気が使えると言うので風呂に入りに行く、8日ぶりの風呂はとても気持ち良かった。
am9時頃世話になっている高技専にKさんと見舞いに行く。ついでに近くの被害状況を見て回る、帰路先輩のWさん宅も
立ち寄る。床下浸水程度で済んだと言っていた。
知らない人から何度も着信有り、イオンの近くへ移動し内容を確認。セーラの知人でセーラからの依頼で知人のTさんが
近くの釜小に居るので安否の確認をして連絡してほしいとのこと。自転車で行き本人と面会、無事であることを依頼者に
連絡する。
夕方、Kさんが来る。明日女川へ行くと言うので私の友人たちの安否確認を依頼する。


3月19日
同級生のO君宅へ見舞いに車で行く、牧山トンネルを抜けると別世界、惨澹たる状況。O君宅は水が上がらなかったが
近くの人たち数人が避難しているという。もう一人の同級生のOo君もみんな無事だという。
夕方Kさんが来て友人のSさんは無事だと知らせてくれる。Kさんに古いザックと下着類を渡す。
電気、携帯が使えるようになる。さっそく着信履歴をもとに電話を掛け無事を知らせる。


3月20日
女川のS君から電話あり車を借りたいと言うのでYの車を貸すことにして取りに来てもらう。
風呂に入りたいと言うので入ってもらう。家も車も全部無くなり避難場暮らしをしていると言う。
消防のO君は行くへ不明だという。Yの友人が風呂に入りたいと言うので迎えに行き風呂に入ってもらう。
Kさんから電話あり事務員のSuさんが風呂に入りたいと言って女川やってくる。Yの友人を避難場所へ送って行くが
大潮と重なり通行止め、迂回して送るが途中で断念し徒歩で帰ってもらう。被害状況は画像で見る以上に惨澹たるものだった。
Kさんは仕事を再建させるため暫く女川の近くのホテル(避難所)に宿泊するという(無料)


3月21日
安否確認もほぼ終了しようやく平常な生活に戻る。息子たちの仕事の取次が結構多く自転車で掛け回る。
これから食料の確保が仕事になりそう、昨日は友人の肉屋さんから沢山の肉を買い入れ事務所に居る避難民や長男、次男
嫁さんの親などと分け合う。今日は畑に行きホウレンソウなど採ってきてそれぞれ分配する。

以上震災から10日間の概略です。